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魚や 片桐寅吉

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魚や 片桐寅吉の想い

五代目 片桐寅吉
新潟中央水産市場株式会社

代表取締役 藤田 普

魚や 片桐寅吉の歴史

片桐家について

初代 片桐 寅吉

片桐家は、新潟県で古くから漁業と卸売り業を営んできた歴史ある一族です。
片桐寅吉は、江戸時代末期から明治時代にかけて、北洋漁業に携わり、地域の経済発展に大きく貢献しました。

片桐家は漁業の発展に加えて、魚介類の卸売りを通じて新潟の食文化の向上にも寄与してきました。
代々引き継がれてきた片桐家の経営方針は、伝統を尊重しながらも新しい技術や手法を積極的に取り入れることで、時代の変化に適応し、持続可能な漁業を追求してきました。

片桐家 年表

  • 江戸時代末期
    (1800年代中期)
    片桐寅吉が新潟で漁業を始め、家業の基礎を築く。樺太での漁業活動も開始
  • 明治18年 (1885年)
    初代片桐寅吉が鮮魚問屋を開業し、地域の水産業の基盤を築く
  • 明治37年 (1904年)

    2代目片桐寅吉が新潟鮮魚問屋(現在の新潟中央水産市場)を設立。競りを開き、卸売業を本格化

  • 明治39年 (1906年)
    有限責任新潟信用組合が設立され、2代目片桐寅吉が理事長に就任。地域経済の発展を支援
  • 明治40年 (1907年)
    新潟遠洋漁業株式会社が設立され、2代目片桐寅吉が役員に就任。北洋漁業の拡大に寄与
  • 明治41年 (1908年)
    外国領海水産組合法に基づき、露国沿海州水産組合が成立(翌年露領水産組合と改称)
  • 明治42年 (1909年)
    露領水産組合新潟支部が設立され、2代目片桐寅吉が副支部長に就任。新潟遠洋漁業株式会社が解散
  • 大正12年 (1923年)
    本町市場での近海網物の競り売りが開始される
  • 昭和12年 (1937年)
    新潟鮮魚問屋が新潟中央水産市場に改称
  • 平成16年 (2004年)
    新潟中央水産市場が創業100周年を迎える
  • 平成22年 (2010年)
    新潟万代島に「万代島鮮魚センター」を開業し、地元の水産業の中心として発展を続ける

新潟における北洋漁業と片桐家の関わり

北洋漁業について

北洋漁業とは、樺太(現在のサハリン)やカムチャツカ、沿海州といった北方地域で行われる漁業を指します。
冷涼な北洋の海域には豊富な魚資源があり、特にニシン、サケ、マス、カニなどが主要な漁獲対象でした。

19世紀後半から日本の漁業者が北洋に進出し始め、日本の食文化と経済の基盤となる魚介類の供給を担ってきました。
片桐家もこの北洋漁業に積極的に関与し、時には厳しい自然環境の中でリスクを冒しながらも漁業を営んでいました。

北洋漁業の始まり ~江戸時代末期の樺太での漁業~

北洋漁業は江戸時代末期から始まります。この頃、樺太や北海道に近い日本海側の漁民が豊富な魚介類を求めて北上し、漁を行いました。
片桐寅吉も、先見の明を持ってこの地へ進出し、ニシン漁を中心に漁業活動を展開しました。

当時の漁業は、風や波の影響を受けやすく、過酷な環境で行われていたものの、片桐家は熟練した技術を駆使し、収穫を続けることに成功しました。

明治期の樺太での漁業

明治時代になると、日本の漁業は技術的にも発展し、さらに大規模な漁業が可能となりました。
片桐寅吉の後継者たちは、樺太での漁業権を確保し、現地の漁民との協力体制を築きながら事業を拡大しました。
樺太での漁業は、特にニシンやサケ、マスが主要な漁獲対象となり、片桐家の経済基盤を強固にするものとなりました。

明治政府の支援やインフラ整備も進み、漁獲物の輸送や保存技術も向上したことで、漁業活動はさらに活発化しました。

沿海州での漁業

20世紀に入ると、片桐家は沿海州にも漁業範囲を広げました。
沿海州は豊かな漁場として知られ、特にカニやサケの漁獲が盛んでした。

片桐家は、新たな漁場としてこの地域に注目し、現地の漁師や商人と連携しながら漁業を展開。
特にカニの漁業では、片桐家の技術と経験が生かされ、質の高い漁獲物を日本国内外に輸出することで、さらなる商業的成功を収めました。

カムチャツカでの漁業

カムチャツカ半島は、その厳しい自然環境にもかかわらず、豊富な漁獲資源があることで知られていました。
片桐家は、このカムチャツカの地にも進出し、特にサケやマスの漁業を展開しました。
冷涼な海域での漁業は技術的にも困難を伴いましたが、片桐家の持つ経験と工夫によって、安定した漁獲を実現しました。

カムチャツカでの漁業は、片桐家の国際的な商業ネットワークの形成にも寄与し、日本国内外での取引を拡大させました。

北洋漁業と片桐家

明治34年の規則により、ロシア人名義で漁業を営む日本人漁業家が現れるようになりました。その一人が、2代目片桐寅吉(以下、寅吉)です。寅吉は、イワン・ポポプ(図3)というロシア人とその家族を食客として迎え、漁業を営んでいたとされています。 明治38年(1905年)のポーツマス条約によって、ロシア領での日本人の漁業が正式に認められ、明治40年(1907年)には「日露漁業協約」が締結されました。この協約により、日本人漁業家もロシア人と同様に入札で漁区を借りることが可能となり、全国的に北洋へ出漁する船の数が増加しました。新潟港からの船も増え、明治末期には100隻以上が出漁するようになりました。

また、明治41年(1908年)には、漁業家の統制が求められる中で「露領沿海州水産組合」が結成され、明治44年には「露領水産組合」と改称されました。新潟支部は明治42年(1909年)に設立され、副支部長に寅吉が選ばれました。 さらに、北洋漁業の発展を目指して、明治40年(1907年)には「新潟遠洋漁業株式会社」が設立され、寅吉も役員として参加し、経営に深く関わりました。寅吉は明治末期から大正期にかけて、年間100万尾の漁獲高を達成する有力な漁業家となりました。

その後、会社は大規模経営による資金難に陥り、寅吉は経営から退き個人経営に戻りましたが、片桐家は鮮魚問屋として事業を拡大しました。昭和12年(1937年)には「新潟中央水産市場株式会社」へと社名を変更し、現在に至っています。

新潟における主な北洋漁業家とその漁獲高(単位:千尾)

1909 1910 1911 1912 1913 1914 1915 1916 1917 1918

片桐寅吉

1,242

1,029

1,044

669

941

1,085

1,216

2,390

1,373

1,828

田代三吉

1,356

1,025

2,540

933

1,892

1,085

1,495

3,400

2,804

2,624

新潟商事(株)

819

578

986

384

817

920

-

-

-

-

東洋物産(株)

790

1,172

1,424

1,154

2,333

3,028

1,911

5,191

731

964

浅井惚十郎

537

493

843

377

757

1,239

1,309

1,193

1,299

1,154

鈴木佐平

321

148

610

471

485

747

527

527

1,255

1,059

堤 清六

234

348

-

594

1,286

1,900

1,657

4,488

7,228

5,285

片桐山と吉祥院

高野山真言宗に属する寺院で、明治37年(1904年)に現在の場所へ移転したと伝えられています。この寺院は個人所有で、檀家や墓地を持たないという点で、他の寺院とは異なる特徴を持っています。かつては年に一度、仕出し業者や鮮魚店が境内にある魚介供養塔に生きた魚を供え、海に放流する行事が行われており、この伝統は昭和50年頃まで続いていました。